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大野ぶどうは「口野重太郎さん」をおいて語ることができません。


口野さんが今の河内長野市でぶどう栽培をされていた吉年(よどし)さんからぶどう栽培の指導を受け、ご自分の畑に植え付けられたのは明治の末期か大正の初めと推測されます。


口野さんの栽培状況を絶えず見ていた近所の人たちも、「この土地でもぶどうはできるんだ俺たちも植えてみよう」ということで、畑や水の足りない水田へ植えたのが大正6年頃でした。


ぶどうは植え付けて3年ほどで実がなり、これを木箱に入れて堺市の市場へ天秤棒で担いで歩いて売りに行ったところ、市場でも「初めてぶどうが来た」ということで高く売れました。


その後、大野では次第にぶどうを植える人が増え、最盛期には40町歩(ヘクタール)を超す面積になりました。ただし大野は土地の起伏が多く、開墾のできるようななだらかな斜面がほとんどないため、面積の拡大には無理があり、ぶどうで生計を維持することは至難でした。その分、面積が少なければ十分な管理をやり、少しでも良質のものを作ろうという意欲がありました。


昭和7・8年頃には大阪市内の委託問屋の荷引きの人が毎日大野に入るようになり、その後大阪市内に中央市場ができ、委託問屋の人たちが仲買人となり、大型トラックで毎日出荷するようになりました。


昭和9年に第1室戸台風、次にジェーン、第2室戸と大きな台風に襲われ、大野全体のぶどう園は惨めな姿に変わってしまいました。棚は倒れ、幹は折れ、茫然とするばかりでした。
しかし、これによってやる気をなくすものは一人もいませんでした。台風ほどぶどうにとって恐ろしいものはないのです。

そして、太平洋戦争がはじまり大野からも多くの若者が戦場へ狩り出されました。ぶどう農家にとっては経営上深刻な事態でした。戦争が長引き、食糧不足が深刻になると同時にぶどうに施す肥料も全く手に入らないようになりました。しかし婦人や老人が堆肥を造り、山の落ち葉をぶどう園に持ち込んで木の衰弱を何とか防いでくれました。


終戦後数年が過ぎたとき、中央市場からまとまった数量と果実の等級を要求してきました。これは産地の小さい大野では対応できませんでした。そしてついに中央市場から脱退をし、堺市や岸和田市の市場へと移っていったのです。


昭和36年、大阪府に果樹振興会が、そして同時に当時の狭山町にも果樹振興会ができました。初代会長は中村良雄さんです。当時の狭山には大野、茱萸木、半田、今熊にも果樹が植えられていました。


昭和40年頃から始まった狭山ニュータウンの開発が進み、ぶどう園はごくわずか残るのみとなり大野地区では当初40町歩もあったぶどう園も河内長野のぶどう園も含め10数町歩となりました。


昭和56年頃から市場出荷をやめて直販をする農家が次第に増え、今では全農家が自家販売をするようになりました。一方では高齢化が進み、若者の離農、後継者のいない農家もあって最盛期には80名いた会員も40名足らずとなっています。

 (2011年大阪狭山市果樹振興会50周年記念誌の中村良雄さんによる寄稿を抜粋、編集しました)

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